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光を孕む書道 ~Misuzu-ism~

母が死んだ  (1)

母が死んだ。

焚きあげ後の骨の無機質さ・・・・・


生前、「私の人生は小説になるわ」  と話していた。

晩年、体が不自由ながらも頭脳は鮮明で、記憶力もかなりのものだった。
そんな母の容態が17日(月)一変した。

母は

「美鈴ちゃん、来てくれたのね」と、私の顔を見て呟いた。


妹がいつもと違う母の様子に119番をした。

やって来た救急車の隊員は、「タクシー変わりに使われたら困る!」と妹に投げつけたらしい。

「言われた!」と思ったが、介護タクシーを呼んでいては、間に合わないと判断し、こっちは弱者、黙って救急車に乗った。

結果として、母は死んでしまったわけだから、心無い言動は謹んでもらいたいと強く願う。

救急車の中で

母は

「しんどい」と、弱々しく言った。

最後の言葉だった。



夕方には「腹部大動脈瘤破裂」で大量の腹部出血がCT検査により判明した。
母は、「手術はかんにんして欲しい、頼むわ、これ以上私を苦しめないで、お父さんの所へ逝かせて!」  と懇願した。

このまま放置すれば確実に死がくる。

私と、ずっと母の介護をしてきた妹は、緊急手術を決行するべきか、決断を迫られた。
生存の可能性は五分五分という・・・・

私は、苦しまずに逝けるのなら手術をしないで母の言うとおり、自然に逝くのもいいのではないか?と思ったが、母の介護を背負って来た妹は「手術をしてもらう!」  と毅然と言った。

私はそんな妹を余り見たことが無かったので、少々驚いたが、長年母を見てきた妹の判断に任せるのが、良いと思った。

明石医療センター血管外科で緊急手術が始まろうとしていた。

担当医師が私達に病状説明をしようとしたその時、「容態急変です!大量の出血です! 先生!  急いでください!!!!」 看護師の緊迫した声に医師も、走って手術室へ・・・・

今思い起こすと、まさに映画のシーンのようであった。
手術中、待合室で4時間待機した。  ちょっとした足音にも「終了の知らせか?」と不安がつのり、ビクついた。
19:30~23:30 の手術。 
18日1:00ころ母に対面できたが、管を多数刺された母の痛々しい姿を目の当たりにして、辛かった。
怖がりの母からは、想像もできない姿だった・・・・・・辛かった。

18日(火)10時、帰らぬ人となった。
全身麻酔をしたまま、目を覚ますことは無かった・

担当医が「力に成れずすみませんでした」 と言った。
「ありがとうございました。」とだけ、応えた。
「死因に疑問のある場合、解剖がありますが・・」と小声でもう一人の医師が言った。
「いいえ、要りません」と私は答えた。


医療ミスの多い死亡時の解剖の重要さは、認識していたが、高齢であり、あの美しかった母の体をもう切り刻みたくは無かった。

どんな死顔か? と私は怯えた。

霊安室に入った。

霊安室は、

教会のような高い窓があり、

光が射し込んでいた。

キラキラと美しい白い光に、

私は
ホッとしたかもしれない。

思いもしないくらい清清しい空気だった。

無粋な管は取り除かれていた。

母は安らかで美しかった。

「お母さん、お父さんに会えた?  三途の川を渡って、お父さんに会えた?」と母に語りかけた。

母の目元、口元が微笑んだ!!!!!!!!
聴こえているんだ!
そして、父に会えたんだ!
そう、私は確信した。
愛を抱いて死んで行った女の、美しさと強さに感動した!

一緒にいた知人も「?!?!   笑ったよねー」と二人で顔を見合わせた。


母は「情愛の深い女」だった。

昨年最愛の父が亡くなって、1年4か月だった。


続きます・・・

小阪美鈴オフィシャルHP





by shobirei | 2009-08-21 01:21 | 神戸の女流書家 | Comments(0)